多種解放とは何か?

《交界の羅針盤|Pyxis Limethica》は多種解放の哲学を基幹に据えます。しかし、多種解放とは何なのでしょうか。多種(multispecies)という概念はポストヒューマニズム系の議論から現れ、近年では「多種民族誌」や「多種正義」など、さまざまな使われ方をしていますが、「多種解放」という言葉はまだほとんど普及していません。そこで、LOGBOOKの初回となる本稿では、《交界の羅針盤》が構想する「多種解放」の哲学を明確に定義したいと思います。

「多種」概念の発祥

「多種」とはもともと人類学者らの議論によって形成された概念です1。多種研究は、これまで人類の営みの背景や客体として扱われてきた存在者たち、すなわち動植物や微生物、無生物などの主体性に光を当て、そうした様々な存在者たちが関わり合って互いを形づくっていくプロセス――いわゆる「絡まり合い」――を調べ、書き留めることを特色とします。
 例えば、人類学者のヴァン・ドゥーレンは、インドで牛に与えられる抗炎症薬が、その死体を食べるハゲワシの命を奪い、ハゲワシの減少に伴って犬が牛の死体に集まり、病原体の運び屋となって人間社会に公衆衛生の危機をもたらすといったサイクルを記述しました2

 この関係網では、人間の行動とハゲワシや犬の生態、さらには病原体の動態が互いに影響し合い、互いを変えていく様子が描かれています。これはある種の生態学といえそうですが、多種研究はこのような絡まり合いに地域ごとの歴史や習俗、人々の動物観や世界観、生きもの同士の関係史などが深く影響していることを踏まえ、自然科学とは異なる角度から重層的な分析を試みます。
 そして重要なことに、多種研究はこうして「人間」のみに向けられていたフォーカスを、人間以外も含む「多種」へと広げることで、人間中心主義の乗り越えを試みているとも評価されます。

力関係の存在

 しかしここで注目したいのは、多種の絡まり合いに影を落とす力関係の問題です。人間は他の人間集団とのあいだにも、他種の生きものたちとのあいだにも、構造的な力関係を築いており、それは様々な次元でいうところの「私たち」と「他者」の関係を根底から規定しています。例えば「有害鳥獣駆除」、食肉産業、野生動物管理、環境汚染などを振り返れば分かるように、関係し合う人々や他の生きもののあいだには支配と従属、加害と被害、搾取と被搾取などの力学が働いているでしょう。
 さらに、私たちの知識や認識自体も、そのような力関係において圧倒的な優位にある私たちの地位に根ざしたものとなっていることは否めません。今しがた挙げたように、私たちの利害に照らして一部の動物を「有害鳥獣」と名付けることも、その殺害を「駆除」という婉曲語で言い表すことも力関係の表れといえます。
 多種研究は多様な存在者の主体性とその相互形成に光を当てることで、「人間」の脱中心化を図りますが、その企てをより十全なものとするためには、絡まり合う主体たちがどのような力関係のもとにあるのか、そして私たち自身がどのような観点に立っているのかを考え、社会構造と認識構造の両面における抑圧を払拭していく努力が求められるでしょう。

解放の哲学

 そこで、《交界の羅針盤》は批判の伝統に立ち返り、あらゆる存在者の解放を目標に掲げます。人々や他の生きものたちが絡まり合って生きていることは事実であり、望むと望まざるとにかかわらず、それらの関係が一掃されることはありえません。しかしその条件下でなお、私たちが社会と認識の構造を改め、抑圧的な関係を修復していくこと――さらに、可能かつ必要であれば、なくしていくこと――は大きな倫理的課題として存在するはずです。
 すなわち多種解放とは、多種研究が育んだ「人間以上」の関係論と、批判的研究が培ってきた解放の哲学を融合させた思想フレームといえます。人間以外の生命を含む解放運動としては動物解放があり、批判の伝統に則る研究分野としては批判的動物研究があります。これらの成果物も重要な参照源となりますが、《交界の羅針盤》はさらに世界各地の解放と脱植民地化の哲学にも学びつつ、人間と他の動物、そしてそれ以上の存在も視野に入れた議論を展開していきます。


  1. この概念を定義した初期の論文として、以下を参照。 Eben Kirksey & Stefan Helmreich (2010) “The Emergence of Multispecies Ethnography,” Cultural Anthropology 25 (4), pp. 545–576.
  2. Thom van Dooren (2011) “Vultures and their People in India: Equity and Entanglement in a Time of Extinctions,” Humanities Review 50, pp.45-61.

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