



動物倫理学が生まれた背景には、人間と他の動物の連続性を明らかにした科学的発見がありました。しかし、両者にさまざまな連続性や共通点が見られるとしても、なぜ動物に配慮すべきなのか、その根拠はどこにあるのかという疑問は残ります。
動物倫理学ではしばしば、人間以外の動物たちに道徳的な配慮を広げる根拠として、「感覚意識」(sentience)という概念が用いられてきました1。この感覚意識とはどのようなもので、なぜそれが動物に配慮する根拠となるのでしょうか。
感覚意識とは何か
感覚意識とは、自分の身に起こることを主体的・意識的に経験する能力と定義されます2。これだけでは分かりにくいかもしれませんが、要するに外部からの刺激をただ刺激として感知するだけでなく、それに対して「苦しい」「痛い」「心地よい」などの主体的な意識を持つことを指します。この点で、感覚意識は外部刺激の受容という意味での単なる「感覚」(sensation)とは異なります。感覚に主体的な意識を伴っていることが、感覚意識の重要な点です。
なお、主体的な意識は、言語化された意識とは異なります。言葉を持たない人々の例を考えても分かるように、「苦しい」という言葉を持たずとも、苦しみを経験することはできます。
なぜ感覚意識が重要なのか
感覚意識を持つ存在は、喜びや苦しみを経験します。それはある存在が利害を持つうえでの前提条件となります。石は人間に蹴られたり投げられたりしても、苦しむことはありません。したがって利害もありません。また、心を持たないロボットの場合、センサーを備えていれば外部の刺激を受け取ることはできますが、それに対し主体的に苦しんだり喜んだりすることはありません。
他方、動物たちは外部からの刺激をただ受け取るだけでなく、それを喜びや苦しみとして経験します3。言い換えれば、かれらは利益や不利益を持つのです。そして、それゆえに平均的な倫理観を持つ人々は、かれらに苦しみを負わせることを不道徳だと考えます。
動物倫理学が、動物に配慮すべき根拠として、理性や言語の有無ではなく、感覚意識の有無を重視するのはこのためです。特に動物への道徳的配慮を考えるうえでは、苦しみを経験することが大きな意味を持ちます。理性があろうとなかろうと、言語があろうとなかろうと、苦しみは苦しみであり、それは不利益にほかなりません。私たちの干渉が動物たちに苦しみという不利益をおよぼしかねないという点にこそ、道徳的配慮の根拠があります。
感覚意識が全てか
従来の倫理観では、人間であることが道徳的配慮に浴する根拠とされてきました。人間か否かで配慮の線を引く考え方に比べると、感覚意識の有無によって線を引き直した動物倫理学の貢献は大きかったといえます。
ただし、感覚意識を持つ存在だけが道徳的配慮に値する存在なのかというと、それもまた疑問です。例えば山や川は苦しみを感じません。山を切り崩したところで、山そのものが不利益を経験することはないでしょう。しかし、そのような存在に私たちが配慮する必要はないのでしょうか。
これが動物倫理学の内外において、現在もなお論争を生んでいる問題の一つです。《交界の羅針盤》では、この動物倫理学における基本的な考え方を踏まえつつ、それ以上の倫理をどのように築いていくかを考えていきます。
関連資料
ニュースレター「LIMINOSCOPE 」では、本稿のテーマを他分野の理論や知見と掛け合わせることで多層的に深めていきます。
ご登録は以下のリンクから行なえます(無料購読可能)。
註
- Sentienceは「有感性」「感受性」「情感」などと訳されてきたが、いずれもこの言葉の特徴(本文参照)を満足に表現することができていない。そこで案内人(井上)は数年前から著作物において「感覚意識」という訳語を用いている。
- 例えばDavid Cole (1983) “Sense and Sentience,” SENSE 5 8/18/90, rev.1-19-98を参照。日本の動物倫理学の文献では、この「感覚意識」と「感覚」を混同している例がしばしば見られるため、注意を要する。
- この点はいまや科学界の常識となっている。 例えば2012年に発表された「ケンブリッジ意識宣言」(The Cambridge Declaration on Consciousness)を参照されたい。
