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【 Vol.2 No.2 】多種解放を構想する ② ――絡まり合いの存在論から、力関係の批判へ

 人間以上の存在を取り巻く今日の倫理問題は多岐にわたるが、その多くは多種関係に生じた歪みの表れと捉えることができる。それは例えば、人間と野生動物の棲み分けが失われることによって、それまで脅威ではなかった微生物が脅威となることを考えても、あるいは人間が動物を食用利用することによって新たな脅威となる病原体を生み出していることを考えても明らかだろう。こうした現状を前に求められる倫理とは、どのようなものか。
 その答えは、すでにこの状況の中に表れているように思える。すなわち、これからの時代に必要なのは、そのような多種関係の歪みを正していく枠組みだろう。

多種研究――絡まり合いを記述する

 関係の倫理を構想するうえで一つの参照点となるのが、多種研究である。多種研究、その中でも特に多種民族誌は、動物、植物、微生物、さらには人工物など、人間以外の存在者たちを人間活動の背景や客体と見てきた伝統を脱し、その主体性に光を当てる。そして様々な存在者たちが関係し合いつつ、その関係の中でどのように振る舞い、互いをどう変えていくかを見つめる。
 例えば人類学者のアナ・チンは、松茸をめぐる多種関係を記述した。チンの見方では、松は菌根菌を養いながら菌根菌に養われ、周囲の動物とも共生関係を築いている。さらに、人間は野焼きや伐採によって土地の日当たりをよくし、松のコロニー形成を助ける。各々の生き物は自律性を持ちながらも互いに依存し、互いの生を形作る。そのような絡まり合う生きものたちのネットワークを、チンはアセンブリッジ(集合体)という概念で捉えた

図1 松を中心とするアセンブリッジ

 このような生きものたちの相互依存や相互形成に光を当てるのが多種研究である。従来の常識では、菌類や微生物は主体性を持たないとされてきた。しかし、実はそうした存在も、生きものたちの関係網に大きな影響をもたらすことがある。そのような振る舞いを、多種研究は一種の主体性と見る。各々の主体は自律的に振る舞いつつも、他の存在と絡み合っている。
 それだけではない。多種研究の見方では、人間やその活動もまた、他の生きものたちのあり方や主体的な働きかけによって作られる。例えば、松に関わる生きものたちの生態は、松茸の採取や流通といった人間経済のあり方を左右する。多種研究はこうして、人間に固定されていた視点を様々にずらし、人間中心主義からの脱却を促しているとも言われる
 この存在論には一定の魅力がある。なぜならこれによって、どんな生きものが意識や感情を持つかといった問いを超え、主体性を持つ多様な存在が絡まり合っているという前提から、人間活動の意味や生態系における位置付けを問う道が開けるからである。実際、多種研究をもとに、人間以上の利益保護を求める多種正義という分野も現れた(多種正義については次号で扱う)。

多種研究に欠けているもの

 しかし、多種研究の存在論には危うさもある。多様な生きものたちが主体性を持って絡まり合い、互いを形作っているという点はその通りだろうが、その関係はどこまで当の生きものたちの自発的な働きによって作られたものなのか。あるいはこう言ってよければ、どこまでが各々の生きものたちの「望んだ」関係なのか。多種研究はここを問わない。
 さらに、その関係の背後にどのような権力や統制が働いているのかも、多種研究ではほとんど顧みられていないように窺える。例えば、チンは人間と松の共生関係を描くが、それは本当に共生あるいは相互依存なのだろうか。人間は確かに松や松茸に依存しているかもしれない。しかし、松は人間がいないうちから生きてきただろう。人間が介入せずとも、自然の山火事などによって松は種子を広げることができたと思われる。人間は松の分布域を広げたかもしれないが、松やその周辺の生きものたちが人間に依存しているのかと言われると疑問である。むしろ人間はそのような干渉行為によって、生態系のバランスを崩しているかもしれない。多種研究において、このような関係の力学や倫理的な意味が積極的に問われている様子はない。
 多種研究に大きな影響を与えたダナ・ハラウェイの議論を顧みれば、懸念はさらに大きくなる。彼女によれば、例えば動物実験においては人間と他の動物がアセンブリッジを形成しているという。そこでは人間が動物を完全にコントロールしているという見方に反し、動物の振る舞いが実験に影響を与えており、実験者と動物は主体と客体の区別なく絡まり合っている、とハラウェイは論じる

図2 ハラウェイが描く実験室のアセンブリッジ

 しかしこの考え方はいかにも危うい。明らかに主体的に振る舞っているもの、客体として扱われているものが存在するにもかかわらず、その関係を「絡まり合い」や「相互形成」や「アセンブリッジ」という概念でまとめてしまうと、そこにある力関係や非対称性、加害と被害の関係などが曇らされてしまう。
 フェミニストのジョセフィン・ドノバンはこの問題に切り込む。彼女によれば、一方の行為者が他方を支配する力を持つ時、絡まり合う存在者たちのあいだには政治的力学が存在する。それをアセンブリッジという概念によって覆い隠すことがあってはならない。実際、絡まり合いに含まれる政治的な力関係を見ないせいか、多種研究の議論は現状肯定的な結論に向かいがちな印象を受ける。それはこの研究が存在論を転換すること、つまり人間中心の世界観から、人間以上の関係を中心とする世界観へと、私たちの思考をシフトさせることを目指しているからかもしれない。
 しかし、そうであればなおのこと、その関係の暴力性や不健全性を問うための倫理的な枠組みが必要になるだろう。すなわち、多種関係の存在論自体も、私たちは批判的に見つめ直す必要があるのではないか。

力関係を問う倫理を求めて

 多種研究の関係的存在論は重要な視界を開くと思われるが、その倫理的・政治的視点の欠如は問題とされる必要がある。多種解放は、まさにそのような多種関係の中にある政治的力学――非対称性や暴力性――を見出し、それを批判的に乗り越える枠組みでなければならない。
 そのためには、存在者たちの諸関係を多様な軸から見つめる必要があるだろう。例えば、人間と自然の共生と思える関係の中にも、動物搾取的な面やジェンダー不平等な面があることも考えられる。したがって、その絡まり合いがどのような歴史的文脈を持つか、どのような社会的・生態学的位置づけにあるか、ジェンダーや人種性や植民地性とどのように関わっているか、などを丹念に見ていかなければならない。それは健全な関係を新たに築き直していく際にも必要な観点である。
 このような諸領域を超える営みのためには、さまざまな知識と経験を持つ人々の参加こそが、何よりも必要に違いない。この地球危機の時代において、多種関係の健全化という課題は、あらゆる人々、あらゆる生きものたちの運命に関わる。どんなバックグラウンドからの証言も重要な意味を持つ。
 以後も引き続き、読者とともに探究の旅を続けたい。


  1. アナ・チン著/赤嶺淳訳(2019)『マツタケ : 不確定な時代を生きる術』みすず書房、p.31-4, 255-6.
  2. ただし、ここで言う「人間中心主義」という言葉の意味合いには注意を要する。
    井上太一(2026)「二つの人間中心主義――環境倫理学とポストヒューマニズムの齟齬を確かめる」交界の羅針盤|Pyxis Limethica, https://pyxis-limethica.space/logbook/archives/1275 を参照。
  3. Donna J. Haraway (2008) When Species Meet, University of Minnesota Press, p.88(ダナ・ハラウェイ/高橋さきの[2013]『犬と人が出会うとき――異種協働のポリティクス』青土社)。
  4. Josephine Donovan (2018) “Animal Ethics, the New Materialism and the Question of Subjectivity,” in Atsuko Matsuoka & John Sorenson eds., Critical Animal Studies: Toward Trans-Species Social Justice, Rowman & Littlefield International, p.262.