今日の世界が面している数々の危機に対し、私たちが持っている従来の倫理観がもはや通用しなくなっているという感覚は、少なからぬ人々が共有しているに違いない。人間社会の不平等や不正義も計り知れないが、気候変動や生態系破壊、科学技術の暴走などの問題は、人間を超える生命世界に前代未聞のダメージをもたらしている。そのような事態に私たちが対処していくには、これまでの倫理枠組みを超えた思考が必要となるだろう。人類の生存や幸福だけを考える古いヒューマニズムではもはや今日の諸問題に応じることができず、その哲学の延長線上にある動物倫理や環境倫理も、なお限界を抱えている。必要なのは、これらの遺産を受け継ぎながらも、その限界を乗り越える思考を育てることである。
そこで私は、「多種解放」という枠組みを考えた。これは完成された理論ではなく、これから発展させていきたい哲学、あるいは思索と探究の基軸である。その出発点となる本稿では、既存の倫理枠組みの一つ、動物解放論の意義と限界を確かめることで、多種解放が歩むべき方向性を探りたい。
動物解放論
多種解放という言葉から真っ先に連想されるのは、動物解放かも知れない。確かに、動物解放論は人間中心の倫理や正義を乗り越える強力な理論の一つである。
この概念を唱えたオーストラリアの哲学者、ピーター・シンガーは、動物解放を「種差別」(speciesism)との闘いと位置づけた1。種差別は種の違いを根拠に動物たちの利益を軽んじる不正であり、それが原因で今日の世界では膨大な動物たちが苦しみを負わされている。
近代以降のヨーロッパでは、動物は痛みを感じない機械だとみなされてきたが、20世紀中期以降に発達した動物科学の知見によれば、動物たちは痛みや苦しみなどの感覚、さらに喜びや悲しみなどの感情を有する。この点については、食肉生産や動物実験など、様々な産業で利用される動物たちも例外ではない。ところがシンガーによれば、かれらは人間の(得てして瑣末な)快楽のために利用され、その幸福や不幸がないがしろにされている。それはかれらが動物だから、人間ではないからである。しかしこの理由は理由になっていない。種が違うというだけで人間と同様の感覚や感情を持つ動物たちの苦しみが軽んじられるのであれば、それは差別にほかならない。シンガーはこれを不正とみなし、種差別の抜本的改めの必要性を訴えた。彼にとって、「解放」とは不当な差別や偏見との闘いを意味し、それを動物にまで押し広げることが「動物解放」という概念の真意だった2。
このような主張を示したシンガーの著作『動物の解放』は、権力と闘う他の社会運動にも響き合い、動物擁護運動と動物倫理学の大きな古典となった。
感覚意識にもとづく議論の限界
しかし、その議論に問題がないわけではなかった。それはシンガーの枠組みが持つ長所の裏返しでもある。人間も動物も喜びや苦しみを感じるがゆえに配慮されるべきという思想は、逆にそのような能力を持たない存在を、倫理の範疇から排除する含みを持つ。
確かにそれは一面で理にかなっている。喜びや苦しみを主体的に感じる能力を感覚意識(sentience)というが3、これに注目すれば、苦しみを感じる生きものと感じない生きものを同じような存在とみるような単純化された思考を回避できる。動物擁護にしばしば寄せられるのは、動物も植物も命には違いないのだから、どちらを殺しても食べても同じだという批判である。しかし、犬を切り刻むのと野菜を切り刻むのは明らかに違う。犬は苦しみを経験することが明白であるのに対し、野菜が苦しみを経験するという証拠はほとんど見られないからである。つまり、どのような存在にどのような倫理を適用するかは、その存在のあり方によって区別されなければならない。感覚意識の有無で線を引くのは、その意味で一定の合理性がある。

しかし、動物解放論に対する月並みな批判をしりぞけたうえで、改めてその理論の可能性を吟味してみると、やはり不足感があるのも事実である。例えば、感覚意識を持つ存在の利害だけを考えているようでは、環境問題のかなりの部分が倫理の射程から漏れ落ちてしまう。微生物や植物は苦しみを感じないが、そうした存在との関わり方を思考から外してしまうと、さまざまな問題が噴出する。
一つだけ例をあげると、近年、自然欠乏症(nature deficiency)という現象が知られだした4。人体が自然から切り離されすぎると、健康被害が生じるという問題である。微生物との接触が減ると炎症や免疫疾患などの疾病リスクが上がることが、研究によって明らかになってきた。これは今日、特に都市圏で自然や生物多様性が失われつつあることに関係しているという。生きものの身体は一つの生態系であり、それを取り巻く外部の生態系とのつながりが弱まれば、身体の健康状態が損なわれる。このような問題は、人間だけでなく他の動物の生存や幸福にも関わってくると思われるが、感覚意識の有無を重視する動物倫理学では、こうした点を満足に扱えそうにない。なぜこのような課題が生じるかといえば、私たちは――人間も、他の動物も、その他の存在も――この世界においてあまりに互いに関係しすぎているからである。

多種関係の倫理へ
動物解放論は、人間中心主義に囚われてきた従来の倫理を見直す試みであるとともに、「正しい線を引き直す」試みでもあった。つまり、人間と他の動物のあいだに線を引くのではなく、感覚意識を持つ存在とそうでない存在のあいだに線を引く試みである。それは確かに、不合理な思考を見直す第一歩には違いなかった。
しかし、複雑に絡まり合った生きものたちの関係を踏まえるならば、もはや誰の利益を優先的に守るか、倫理的思考の範囲をどこまでに絞るか、といった思考は満足なものといえない。苦しみを経験するか否かといった点は、倫理的行動を考えるうえで重要な要素に違いないが、今後はそのような単一の尺度だけに囚われず、より広い範囲の多種存在を含む関係の倫理を模索していく必要があるだろう。
以後のLIMINOSCOPEでは、「多種」という概念をめぐるこれまでの議論を検討しつつ、その課題と次なる展望を読者とともに考えていきたい。
註
- Peter Singer (1975) Animal Liberation: A New Ethics for Our Treatment of Animals, A New York Review Book. ピーター・シンガー著/戸田清訳(1988)『動物の解放』技術と人間。
邦訳最新版としてピーター・シンガー著/井上太一訳(2024)『新・動物の解放』(晶文社)も参照。 - Ibid., p.x.
- Sentienceは「有感性」や「情感」などと訳されてきたが ここでは「感覚意識」で統一する。
- Tari Hatela et al. (2024) “From biodiversity to nature deficiency in human health and disease,” Porto Biomedical Journal 9(1):e245. doi: 10.1097/j.pbj.0000000000000245.
推奨される引用形式
井上太一(2026)「多種解放を改めて定義する――動物解放論の批判的検討を通して」LIMINOSCOPE 1(1),交界の羅針盤|Pyxis Limethica, ID:LIMINO-2026-V1N1.
